ダイアローグ#3

心の故郷津軽潘連明×増本泰斗

1994年に中国・上海からの外国人留学生として弘前にやってきた潘連明と
アーティスト増本泰斗によるダイアローグの第三回。

(#2から続き)

潘連明(以下、H):僕には逸舟の下にもうひとり娘がいるんです。娘はね、日本生まれ、弘前で生まれました。それから一緒に青島に行って、上海に移って、また日本に戻ったんですけど、子どもにとってコロコロと環境が変わるのはなんだか辛かっただろうなって思いました。大人はすぐに慣れるかもしれないけれど、子どもは友達を作るのとか大変だっただろうなと…。

増本泰斗(以下、M):僕もあの、子どもが今3人いまして。

H:あ、はい。

M:で、僕自身も広島で生まれて、隣の岡山で育って、高校時代はサッカーをやっていたので静岡に行って、それで東京に行って、その後、僕ヨーロッパのポルトガルに住んでたんですけど…。

H:それは、親の仕事の関係ですか?それとも自分で留学に…。

M:自分ですね、自分で行きたくて…。

H:すごいよね。そんなに環境が変わるとすごく幅が広がりますよね。

M:でも、子どもが生まれてからはずっと京都にいて移動はしてないんですね。だから、なんかやっぱり、いろいろと転々としてきた人生なので、ずっと京都にいたくはなくて、違うところに行きたいな、っていうのはずっと思ってはいるんですけど。

H:そうね、僕もそういう気持ちありますよね。

M:ありますか?

H:うん、あります。たとえば昔上海で一生懸命家を作ったのに、別のところに移って、また新しい家を借りて生活するのはちょっと大変だったけれども、それも経験の積み重ねで、自分の財産になりますよね。

M:ヘえ。じゃあ、上海からまた弘前に戻ったのはいつですか。山東省行って、島に行って…。

H:戻ってないです。直接東京の本社に戻ったんですよね。

M:本社は東京なんですね。

H:うんうん、3年前か。今はもう4年目に入りました。

M:あ、それからじゃあ今は東京にいらっしゃるんですか?

H:えーと、そうですね。まあ、やっぱり海外で暮らした経験があるから、ほとんどもう海外工場の生産や品質管理をしてますね。はい。

M:東京はどうですか?

H:まあ慣れないということはないけれども、最初はオフィスで人が多くて落ち着かないところもあって、1年くらい経ったらようやく慣れました。でも、いまはコロナの関係で本社に行けてないですね。4月からは、ほぼ在宅勤務になっています。

M:弘前時代のことに話を戻しますね。最終的に弘前には何年くらいいたんですか?

H:えーと、全部で、10年か11年かな。

M:その最初の5年間が大学生だったんですね。

H:そう。5年間は留学。僕も中国の大学を卒業していたから、最初は日本語を勉強しました。まあ正直にいうと留学といいながら、最初は全然日本語ができてなかったんですよ。だから弘前大学に入る時に先生もびっくりしたんですよ。「何だ、できないな」って。それで日本語を勉強する授業があったので、そこから大体2年間くらい、ずっと日本語を勉強したんですよね。

M:2年間ぐらいでもう自分のなかでは喋れるって感じになりましたか?

H:行く前に大体自分で勉強はしてたんですよね。なので、最初はできなかったけど半年過ぎたくらいからなんとなく通じるようになったんです。

M:周りには同じ上海から来られた方とかいたんですか?

H:弘前大学は留学生を受け入れるのはちょっと遅かったんです。僕が入る時、初めて私費留学生を受け入れた時だったので…。私の前には国費留学というので文部省から奨学金をもらって、留学してる人はたくさんいたんだけども、ちゃんと自分のお金で、私費留学生として来たのは私が初めてだったんですよ。初めてなので、「どうやって生活できるか」ってすごい注目されました。その後に上海から別の留学生がひとり入ってきたかな。

M:ああ、そうなんですね。えーと、じゃあ、弘前の大学に来た時は中国の方は連明さんひとりだったということですか?

H:最初は僕ひとりだけです。そのあと同じ指導教官のところにはもうひとり別の人も来ましたけど。

M:あ、そうなんですね。

H:うん、うん、だからお互いに手伝ったり、助けたりすることができましたね。

M:じゃあ、あんまり中国語を喋る機会っていうのは少なかったですか?

H:研究室では機会はなかったけれども、バイト先では中国語を喋る人もいたので、(母国語で)喋るのはすごく幸せな感じでした。

M:わかります。

H:その時代は今のように、すぐネットで自分の国の言語を読める時代じゃなかったんですよ。携帯電話も無いし、ニュースとかもインターネットで読めないんですよ。

M:はい。わかります、ポルトガルに住んでいた時は日本人いなかったんで、あの、日本語喋る機会が、えーとね…半年ぐらい無くて。半年間日本語喋らなかったから、日本語喋れなくなりました。

H:あははは。ま、確かにね、すごい辛いですよね。

M:はい、辛かったです。

H:でも突然、同じ国の人に会うと、すごい幸せな感じですよね。

M:はい。

H:自由に喋れるのが。

M:そう。で、そういう時、個人的に僕が、ホッとするじゃないですか、日本語喋れたりすると。それで「ああ自分のアイデンティティは日本語にあるのかな」って、ちょっと思いましたね。

H:でもまあ、大体みんなそういう同じ経験を持ってますよね。

M:国っていうより、言葉にすごく癒されるっていうのはあるんだなって、すごい思います。

H:ですね、そうですね。

M:でも今も日本語で話していますが、普段は中国語と日本語を話す割合ってどんな感じですか?

H:今はね、もうこっちにいると、ほぼ日本語ですよね、例えば会社に中国の同僚も何人かいるんだけども、やっぱり喋ると全部日本語になってますよ。

M:あっ、そうなんですか。

H:うん、他の日本の方からいうとね、「なんで中国の人同士で日本語を喋るのか、面白いね」と思うらしいけれども、もう既に慣れて、それが自然になってますね。

M:じゃあ日本語の方がスッと出てくる感じなんですか?

H:えっと、そうですね、今もう僕も日本に20何年もいますから、もう、逆に、会社で中国語喋るとちょっと不自然な感じです。

M:逆にそうなんですね。津軽弁はどうですか?

H:津軽弁はちょっとだけ覚えたけども、いやー、なかなかその専念して勉強しようとする気持ちもなかったですね。ちょっと難しいですよね。

M:そうですね。

H:津軽弁でわかるのは、本当に簡単に、私は「わ」とか、あなたは「な」とかぐらいですよね。学校ではもちろん津軽弁は誰も喋んないですよね。勤め先でおじいちゃんおばあちゃんが津軽弁「んにゃんにゃ」って喋るんだけども、でも外国人に対してはやっぱり、標準語で喋ってくれるんです。だからそこまで勉強のチャンスもなかったんですよ、実際ね。ま、必要ももちろん無かったんですね。

M:でもまあ、津軽弁を日本語って言えばそうなのかもしれないですけど、全然違うじゃないですか。

H:そうですね、これはもう外国語と一緒なんですよね。そう、中国は方言はあるんだけども、書いた文字は一緒で、ただ喋る時の発音は違う。でも津軽弁はやっぱり書くところも違うんですよね。

M:全然違います?

H:うん、そういうところはちょっと面白い、逆に。

M:あの、弘前に来た初期の頃って混乱しなかったですか?日本語覚えたてのところに、津軽弁を喋るおじいちゃんとおばあちゃんに会ったりすると。

H:やっぱり混乱しました。

M:しますよね。

H:ええ。だから、僕も勤めた時に仕事場に日記のような記録用のノートがあったんですよ。弘前で働いていた時の工場長は、「ちゃんとした日本語を喋って」ってよく言ってました。だから、重要なことを伝える時はノートに「注意すること 1〜、2〜、3 〜」のようにメモしてました。喋るとき、そこに津軽弁がプラスされると本当に間違いの元になるから、やっぱそういうところにはみなさんすごく気をつけてくれたんですよね。

M:へえー。

H:でも津軽が好きなんですよ。

M:あー。津軽地方が好きってことですか?津軽弁?

H:津軽のような地方の、人の心がやっぱり好きなんですよ。うーん、なぜかわからないけど、工場に行くと、おじいちゃんおばあちゃんの心遣いがすごく優しいんですよね。もちろん日本はどこでもそうで、みんな優しいんだけども。津軽って、僕にとって、印象的な日本人の心とは全然違うところですよね。弘前には11年間生活した経験もあるんで、本当に故郷のように感じています。

M:それは羨ましいです。

(終わり)

© 2020 Hirosaki Museum of Contemporary Art

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